マオさんは何でも調査する。記録する。
そうして生きてきた。

でも、妻との余生はそう上手くいかなかった

企業戦士として戦後を駆け抜けたマオさんと、
その妻の日常を温かくユーモアを
交えて描く
“ほのぼのドキュメンタリー映画”が誕生した。

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佐藤 眞生さん

​まお

​昭和14年 朝鮮生まれ新潟育ち

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調査屋マオさんこと佐藤眞生さん

終戦後、釜山から新潟へ命からがら帰還。

立命館大学卒業後、恩師の勧めで、アメリカで市場マーケティングを学び、友人たちと市場調査の会社を起業。

大阪で起業したのち東京へ進出し、千葉に移住。
当時の日本には数少なかった調査、企画、計画推進の最前線に身を置く。

ユニークな仕事内容としてお菓子メーカー「グリコ」のオモチャを選定、アパレルメーカー「ワールド」の男性ブランド(ドルチェ)の企画・開発、食品メーカー「キッコーマン」のトマトジュースの販売訴求の調査などがある。その調査方法は、精通者に質問して教えを乞うという同業者がやっていなかった独自のアンケート方法であったという。

名インタビュアー、ジェームズ・リプトンの「いい質問には良い答えが入っている」というの言葉を胸に調査に挑んだ。

・・・・・仕事に明け暮れる日々・・・家庭は崩壊寸前であった。
息子の「お父さん、今度いつ帰って来るの?」の一言で次の日には自分たちで立ち上げた会社を辞めてしまう。

千葉県から大阪府茨木市へ移住。

元々自然が好きだったマオさんは縄文人の生き方に学び、自給自足の生活を始める。

また、大阪で立ち上げた市場調査の会社では、ランチ時に企業同士をマッチングさせるサービスを始めるとユニークなビジネスという事もあり、NHKをはじめとするマスコミで取り上げられた。

現在は、縄文人の生き方を学ぶ場の塾長を務める他、縄文に関する本を自費出版するなど活動を行っている。

監督がマオさんと出会った時には認知症の妻、縫子さんの言動を記録していた。
2019年6月に縫子さんが亡くなった後、妻の記録を元に、認知症の人とその家族が住みやすい社会作りを模索し続けている。

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調査マオさんの妻 縫子さん

1930年(昭和5年)京都出身。

京都の魚問屋を営む辻家の三女。

山登り、映画鑑賞、旅行を好み、短歌を詠む。

マオさんとは2度目の結婚。

調理師の免許を取得し、料理教室を開いていた。

料理好きの縫子さんであったが

2010年頃から認知症を発症し料理をしなくなった。

マオさん曰く、自分の事より周りの人の心配ばかりする人だったという。

2019年6月永眠。

認知症になり亡くなるまでの期間、
縫子さんの言動をマオさんが記録し続けた。

佐藤 縫子さん

ぬいこ

​昭和5年 京都生まれ

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監督の言葉

佐藤夫婦を撮影して・・・

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認知症の妻に

調査屋マオさんの言葉:映画と認知症について

認知症の妻に寄り添いつづけ

​元調査屋は、妻のために何ができるか・・・

おぼろに浮かぶ 愛の記録

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